仏師 佐竹英一伝 立志編

彫刻への道 佐竹英一(昭和35年本人による自伝)


 私は彫刻を業として、此の道に全生命を打込んで造型美術を研究してゐる。彫刻家と一ロに言ってもいろ〜の種別があって、上は一流の大家から下は作っても作っても、駄作ばかり作ってるる者もある。私は残念年ら後者であって、市井の片隅でコッコツと彫り続けてるる無名の彫刻家に過ぎない。それでも美の真理を追及して、それこそ真剣に日夜を問はず努力はしてゐるが、一作として満足なものは生れない。しかし出来なくても次の造型に邁進して行く。作品のよい、わるいは別として一作一作に精魂を打込んで、ただ最善を尽して日々の仕事をしてゐるのが私の現状である。
 顧みると私の彫刻への道も随分長い歳月を経て今日に及んだものである。恰も影が形に添ふやうに、彫刻と言ふ影は離れないでゐた。少し大げさの言ひ方であるが、初めて粘土で彫刻、つまり一つの形を造ったのは五十年前の事である。幼い頃育った家の程近くに浄土宗の一寺があって、境内に弘法大師の一宇があった。母に伴はれて時々お詣りに行ったが、山門を入った所に六地蔵が行儀よくならんでるた。又行儀よく頭がなく大半は失はれてゐた。子供心に顔のないお地蔵様は困って居られるだろうと思ったのであろう。それから田圃の土を少しづつ、集め、毎日、幾日もかって一つづつお地域さんの頭を作った。どの様なものを造ったか記憶はないが、恐らく丸い団子の中央に隆起を作り、此れが鼻のつもりであったろう。とも角作り上げて、のっけて置いた。雨が降る。自然に解け落ち、流れ崩れて行く頭部を丹念に幾度か作り、幾度かのっけたものだった。七才の時の事である。此の作品こそ邪心のない美しい、私の生涯を通じての傑作であった事と思ふ。それ以来、断片的な彫刻修業が始まった。後日好んで仏教美術を研究するやうになった原因は、随分種々とあるが、其の頃からお寺が好きで故郷のお寺は殆んど歩き廻った。其の為どの寺にこんな仏様があり、あちらの寺にはこう」した仏様があると言ふやうにすっかり覚えて終った。其の記憶は今日尚はっきりと残ってゐる。
 小学校に行くやうになり、三年生の時であった。手工の時間に受持の先生から工作用の粘土が級友全部に配られ、先生がモデルになって肖像を造る事になった。此の先生は山内敬之助と謂ふ方で洋画の研究をして居られるやうだった。級友の作品は案外少なかった其の中から私の作品を取り出し、よく出来たと激賞して下さった。又君は将来影彫刻家になるとよいなあーとも言はれた。山内先生は其の後職を退かれ、以後の消息は知る由もなかったが、これはずっと後日、私が大人になってから東亜キネマの何かの映画を覧中、スクリーンに出てとられ驚いた事があった。確か玉島愛之助と言ふ芸名であった。先生は映画方面に自己の道を開拓されたのであろう。
 四年生に進んだ。自由時間の予習にも倦きたのであろう。鋭利な切出しは机の端にお猿の顔を浮彫りした。所が先生に目見つけら、不真面目、器物をきづつけたと言ふ罪で日の暮れる迄罰として廊下に立たされ、大切な切出しは取り上げられた。私は決して悪さで机をきづつけたのではなかった。それから間もなく弁解の意味を含めて「古机物語」の作文を作り上げた。私の正しい批判であり、又先生に対する一つの抗議であった。作文は今度はよい方に曲解されて、松山の児童展か何かに迄持出されて賞を得た。お猿を彫った副産物であった。それにしても切出しを返して頂くのには随分日時がかかり、骨が折れた。此の切出しは父の知人に年老いた指物師が居た。藤一爺と呼んだ。老人夫婦の生活は静かで、此の家庭へよく遊びに行く内に自分の使用してゐた切出しを私にくれた。そして丹念にとぎ方迄教へて下さった。其の為何時もこの切出しは税利な切味を持ってるた、私に刀を磨ぐ素地を作ってくれた人である。木片と粘土さえあれば何時も静かによく遊んだ。人々からは温和しい子供だと言ふ評判を受けた。これは嘘である。よく山野を歩き廻り松こぶを見つけて達磨さんを作った。ご飯炊きの番をすれば真黒にして終ふ。弟の守りをすれば眼をはなして転がし、頭にコブを作らせた。其の都度後悔の念に捉はれた。高等小学に進んだ。初夏の頃山深くで一羽のフクロウを生捕って帰った。夏休みの自由作品はこれをモデルにして粘土で造り上げた。苦心の作品だった。百点は頂けると大さな自信を持ってゐた。併し以外にも点数は貰えなかった。私の作品ではないと断定されたらしい。年齢的にもソロ〜変動期であったろう、又精神面にも大きな反抗期であったのか以後一切学校の工作を止めて終った。それには又家庭の事情もあって、彫刻の真似等をする時間が与えられなかった。高等二年の夏休みは、母校の臨時給仕に雇はれて日給十三銭(銭=原文は金偏なし)を頂き、二学期の始まった時町役場の収入役から卅一日分四円三銭を支給された。生れて始めて得た自力の報酬で、働いて得る快感は此の時私の心の奥に根強く植付けられた。
 私は将来を海に働く考へで香川県立粟島商船学校を受験して合格したが、家庭の都合上中止して父の知人である東宇和郡卯之町の老舗に小僧として奉公に行った。四月末のうららかな若葉の美しい日であった。母の心尽しの「アツシ」を着て、草鞋をはいて山越四里の峠を越した。峠の店家で弁当を開いた。遙か九州の山々が薄霞みの彼方にうっすらとみへる。宇和海の島々が絵のやうに浮んで居る。大きな自然に包まれて、力一ぱい大気を吸ひ込んだ。併し私の両眼からは止めどない熱い熱い涙が流れた。只少年期の感傷的な涙とも思えない涙が。ふと我に返った、老鷲が一盛んに鳴いてゐる。山路の近くに立並んだ山桜は今を盛りと薬桜の盛観を呈してゐる。たくましく、太く直に延びた大樹であった。
  私は珍らしい樹木が少年の頃から眼について仕様がなかった。成人してから此の峠に登った。それはかって少年の日の桜樹を観に行ったが既に伐採されて影はなかった。店家もなかった。感無量、其の程近くに賛美歌「山路越えて」の記念碑が建ってゐた。
 お店での私はよく働き、主人始め皆の人達からよく愛された。然し私の持つ悪いくせが此の店でも二度程出て失敗をして終った。お店の土蔵の壁が落ちて修理が行はれた時の事であった。此の土蔵に何か商品を取出しに行き、粘土質の赤土が盛り上げられてゐるのを|知った。其の辺りを雉の一群が盛んに土をかいて餌をあさってゐる。粘土と雉、己の仕事を忘れて造型の園に迷ひ込んだ。一対の雉が大体出来上る頃には相当の時間が経って夕方近くなってゐた。
 お店の方では主人始め小僧迄私を探した。お客さんが沢山来て忙しかったのである。何ぞ計らん裏の土蔵の影でいい気になって悠々と雉を造ってるのだから誰だって立腹するのは無理のない事だ。兄丁稚のゲンコツが爆発した。随分叱責されたが二度とくり返さない事を約して謝罪した。その後又一度結土細工の失敗を繰り返した。
 其の頃両親の家計は随分苦しい事を知り、此の店を出て収入の多い仕事を働く決心をした。主人におひまを申出たが許るされない。八月の末であった。ひたむきな少年期の熱情は、卑怯ではあるが無断で飛び出す決心をして終った。夜更け密かに店を脱け出し、字和峠を一気に、それこそ飛ぶやうに実家に帰って来た。夜はまだ明けきってゐないが両親は起きている様子、話声が聞える。じっときき耳を立て様子をうかがった。さて帰ってみても厳格な父が恐ろしかった。「此の包は栄市に届けて下さい。着替えや其の外のものが入ってゐる」母の声がした。母の懐しい慈愛のこもった声である。父は此れから卯之町へ何かの用件で出かける所らしい、不幸者は既に帰って今此処に立ってゐる。行く事も出来ず、入る事も出来ず、何時迄も泣き乍ら停んで居た。
 大正七年十月末大阪の海員養成所掖済会を出て商船会社の所有鉛愛媛丸の機関部見習員として配属され、私のマドロス生活が始まった。海の生活は生優しいものではない、随分と苦しいものであったが日の経つにつれ、次第に身について来た。まして作業中船底で石炭を焚く時は、熱地獄であった。私は歯を喰ひしばって一生懸命働いた。その効ひあって次第に職務も昇進し、其の都度給金も増して行った。故郷の両親に送金して家計の一端を補ふ事が出来る事に無上の喜びを感じた。
私の乗組む愛媛丸は大正八年三月十四日午前十時、大分県鶴見崎で坐礁、二十分後に半ば沈没した。細島港を出帆して佐伯港に向ふ一途中の出来事であった。春はまだ浅く南風の吹くには時季が少し早かった。海人の言ふ春一番、其の日は強い南風が吹き募った。太平洋のうねりは山のやう、前後左右に動揺した。恰度十時大音響を起して船は激突した。坐礁したのである。次の瞬間大浪にもみ上げられて大きく右舷に傾いた儘離礁した。暫く正常の位置に返らない、エンジンは止まり、ボイラーからは猛烈な勢いでスチームが噴出した。大体正常の位置に船がかえったと思はれた時、スチームは止まり、エンジンは廻転を始めた。これ等の出来事は総て一瞬の内の事であった。 軈て船長より坐礁、離礁、尚テレグラフは超全速を命じて来た。此の時私は丁度当直で船底で石炭を焚いてゐた。機関長は全力を挙げてスチームの保有に努めよと厳命した。船の傾く度合が私の体の重心でよく解った。機関室にも浸水が始まり、エンジンはゴポリゴポリと船アカを機関室一ばいに飛ばした。随分長い間が経った様だったが此の間催か二十分、再び坐礁した様な音響を聞いた。これは安全音響で岸辺の砂浜に乗上げたのであった。小学生の修学旅行、旅役者等の団体客もあったが人命に損傷はなく、全員無事救はれた。さて船は中央部より船尾を海中に没し、約一週間救助船の来る迄陸に上って避難してるたが、早遠退届を感じ、粘土を探して一体の仏様を造った。此の仏様は焚火で焼いて附近の村人に所望されて差上げた。命拾ひをした感謝の心が私に仏を造らせたので一あろう。此の地点は古い事であるのではっきりしないが、大分県海部郡羽出村と記憶してゐる。
 此の後大正十一年八月末迄西日本の港々を旅して廻り、時には朝鮮、上海と航海した。海員生活の終り近く、履歴年限が足りて当時の通信省試験三等機関士にも幸ひ合格した。青年期に達した頃、父の努力が報ひられて生家の家計も挽回され、私の応援もなくともよい事になったので、愈々上京の横会を的ふやうになった。大正十一年九月意を決して丸四ケ年のマドロス生活に名残りを告げ、青春の夢を全身に包んで勇躍上京した。


第二回

 私は明治卅六年八月、伊予吉田町に生れた。家は代々旅館を営み田村といい、屋号を白木屋と云った。母は此の家の一人娘で育った。父は隣村奥南村で父祖代々網元を営んでいた佐竹と云ふ古い古い家の末子に生れ、田村に養子に来てくれた。父が二十三才、母が二十二才のとき、長男として生れた。あまり若い両親の間に生れた為か、私の性格は少々左巻きのやうだ。苦労を知らず、世間にうとい若い夫婦は次第に家財をかたむけて行った。私の少年期はこうした経済の中に育って青年となった。
 彫刻と謂う大目的に進むのに、二つの道があったやうだ。特急列車や、飛行機で一気に到着する場合と、昔を其ままに草鞋をはいて、腰弁当で野に伏し、山に寝ね、それこそ時日構はず、ブラリと道草を喰って旅行く方法とである。つまり私は後者の道を選んだのであろう。上京後の十年は、最も大切な時期であったが、彫刻とは凡そ縁遠い事をして終った。今日仏教芸術を研究する様になった遠因は多分に此の期間中に生れたと云える。
 上京した私は浅草田中町日の出やと云ふ簡易旅館に落付いた。南千住の市電終点近くの交番で、若い親切な巡査が教えてくれた安宿であった。此処で仕事を探したが仲々適当なのがない、三十をいくつか越えた様な田舎丸一出しの女中さんが居て、何かと世話をよくしてくれた。遂に就職口迄探して下さった。柳井と云ふモータエンジンの部分品を造る小さな工場であった。私はここで職工となった。夜は神田の夜学校に通学して、数学や英語の勉強を始めた。残念な事に十二年六月経済難の為工場を閉鎖した。と私も徴兵検査で故郷へ帰った。身長五尺二寸八分、体重十四貫百第一乙種、これが二十一才の時の私の全部である。八月の半ば再び日の出やに帰った。女中さんは相変らず何くれとなくよく世話して下さった。宿屋の料金より素人下宿の方がよいからと云って、南千住のコツ(小塚原)に下宿屋を世話してくれた。これが八月二十五日の事であった。この女中さんは名前を「おことさん」と云ひ、山形の田舎から来てゐるのだと、それだけの事を聞いてゐた。八月三十一日の夕方下宿へ来て、明日九月一日のよる浅草吉野町の人形店によい条件でお世話出来たから行くやうにと云って帰って行った。私は不在で下宿のおばさんから言伝へられた。私は奇しくもこのおことさんに救はれ、尊い命を拾ったと今日でも信じている。
 九月一日正しくいへば正午二分前、大東京を全滅に等しい迄に焼野原とした関東大震災が起った。引越し先の下宿屋に二人の子供があり、兄を「ショチャン」妹を「キク」と云った。其の日主人は不在で、私は「ショチャン」を背に確り背負ひ、妹の子の手を引いて子供の母親と避難を始めた。「ショチヤン」は不具の子でその上白痴、其の為成育も悪く十五六になっているのに六七才の子供位の重量しかなかった。妹は十三四才位の愛くるしい少女であった。激動に続くゆり戻しで下宿屋の家は崩壊して終った。阿鼻叫喚の中を人波にもまれ、押され、恐怖の中をあてもなく逃惑ひ千住大橋を渡って北へ北へと避離した。母親はいつの問にかはぐれて見失ひ、安全地帯と思はれる田圃のほとりで絶間なく、襲ってくる余霞と、東京の空を真紅に染めた猛火を見つ、不安の中に一夜を明した。此処は南足立郡梅島村の田圃の中であった
 九月二日の朝である、困ったのは二人の子供である。両親を見出すより外ないと、昨日とは逆に被災地に向けて歩き出した。背なの子は空腹を訴える。此れは三人仝様である。女の子は何も云はない、両親の事さへ口にしない。只私の手を確りと捉えて裸足で歩いてある。恐らくあまりの恐怖から何も言へなくなったのであろう。南千住の天王社の境内に辿りついたのは正午を少し過ぎてゐた。計らずも此の境内で二人の両親に巡り会ふ事が出来た。
 一人身のさっぱりした自由な身は若くたくましいものであった。其の夜北千住の小泉と云ふ牧場の避難所で夕食を恵まれ、此処の奥さんに救はれて此の家で一時落付いた。私は生命拾ひをしたが、さておことさんはどうしたか心にかかる。それで三日の午後日の出やの跡に来てみたが消息が解らない。近所の顔見知りの人の話では田中町の小学校の敷地内に選難した様子だったが、此処へ逃げた人達は全部焼死したと云ふ。而もニ千人もの人が死んだと云ふ。(実際は五六百人)私は現場へ行ってみたが、男女の性別さへ判然しない迄に焼けただれた人々の惨憺たるなきがらの中に、おことさんの死を見極はめる事はと
ても出来なかった。
 数日前此の婦人は私をコツへ転居させた偶然と云ふにはあまりに不思議なことだった。若し日の出やに其の儘居たとしたら、共に此処に避難して同じ悲惨な運命を辿った事であろう。此の田舎々々した婦人の面影が、幼時よく見て歩いた故郷の寺々に祀られている、仏様のどれかに似ているやうに思はれた。此の婦人とは再び逢ふ事は出来なかった。恐らく此の大震災の折田中町小学校の敷地で、無修な焼死をなされたのであろう。私はいつの日にか観音像を彫り度いと心に念じた。それから今日迄三十有余年の歳月が流れた私は毎年九月一日にはどこかの寺へ必ずお脂りする事にして、年々実行してゐる。
 小泉牧場に落付いた私ば牧夫となった。主人夫妻はよく私の面倒を観て、最善の便宜と自由とを与えて下さった。昭和十四年専験に合格して、翌年中央大学に入学した。昭和六年法科をやっと卒業する迄、彫刻とは絶緑してしまった。
 震災の余談ではあるが、私は学校の帰りは神田から向島迄(其の頃は言開の渡近くに住んでいた)よく歩いた。市電の節約である空腹加滅や、下駄代を計算したら或いは赤字だったかも知れない。私は貧しい書生だった。靴の代わりはいつも朴歯の下駄、卒業が近づく頃は制服も破れ果て、修理も出来ない、洗ひざらしの紺絣りに父のお古るの五ッの家絞を打抜いた木綿の紋服、後にも先にも只一着の晴着つまり私の大礼服と云ふ訳だった。例によって徒歩、途中浅草観音に参詣した。仲見世の雑踏の中から二人づれの麗人に呼び止められた。かって震災の時手を引いて逃げ惑った少女キクちやんの成人した姿だった。私を覚えていたらしい。母親は元気である事、白痴の兄は震災後開もなく死んだ事、其の後父も死んだ事、自分は芸者になって母と二人きり新橋か柳橋とかで働いてゐる事、住居の事等を話し、是非一度尋ねてくれと重ね重ね云っていた。不思議な巡り合わせである、よく無事に成人したものだ、然も美しい人にとしみじみ思った。御緑があったら又お逢ひしませうと云って別れたが、此の麗人とは再び緑がなく此の時が最初で又最後のものとなって終った。私がおことさんの思を忘れられないと全様、この麗人親娘は私を命の恩人として、九月一日には蔭膳をして私の無事を祈っていたと謂ふ。
 海で鍛へた体であったが曲りなりにも卒業と云ふ事が緊張をゆるめたのか病にたおれた。郷里の両親のもとに帰り、保養に努めた。少し体の調子がよくなると又悪い虫が起きてくる。彫刻の虫である。山を歩いて素材を探し始めた。此れはよい事であった。一年も経たない内に健康を取り戻した。運動が病ひを征服したのであろう。既に三十才両親が今少しの保養をと進めてくれる言葉を残して二月再び上京、目黒の祐天寺の近くにささやかな家を持った。私は現在の妻と結婚したのである。練馬貫井の駅近く少年保護収容所で保護司になった。此処で私は思ひがけない金属の彫刻を仕遂げた。
昭和七年頃の事である。ゴルフが盛んに行はれるやうになった。このボールは殆んど輸入品であったと謂ふ、然も価が高く一寸した中流品でも一打百七八拾円はしていた。年間の輸入額は二百万円を越え、国産品は使用にたえられる良品はなかったと云ふ。此処で収容児の職業補導に最善の事業と云ふことになってボール製造が計画されたが、困った事には原形のオス形はアメリカに注文せねばならない。此の注文には大きな支障があって実行は困難となった。結局其の原形の実物をつぶさに調べた私は自分で造る決心をした。意外な事だ、法律書生がゴルフボールの原型の彫刻を網鉄に向って始めた。毎日々々を丹念に自ら作った。タガネで彫り続けて、ーケ月後には完成した。アメリカで出来るものと殆んど変らない。
 このボールは国産品一号として、私が「ヒカリ」と命名市場から売出されたが、私が此の学園を去って後、此の事業も中止した事を後で聞いた。
 昭和九年三月、横浜市で法定法人の事務所で書記長を勤めるやうになった。長男が二才の時腹膜炎を患ひ、病状は油断の出来ない状態であった。夫婦は看護に全力を尽し、其の効ひあって翌年の秋頃再び自力で歩くやうになった。
 長い一年の病気で私は医薬の外に観音様を作って仏様に全快をお願ひした。昭和十年の新らしい年を迎え、久し振りに明るいお正月をお祝ひした。と愛児は不幸にも百日咳を患い、一月冊日空しく幼い魂は消え去った。数へ年四歳幼い愛児を一人よみじに送るにはあまりに涙が多く、自作の観音像を愛児の棺に収めて共に茶毘にふした。観音様に伴はれて未知の国に旅立ったと私は自らを慰めた。此の頃から私の影刻への執着は炎の様に燃え盛って来た。
 十二年の春、馬を影り始めた。土曜日の午後と日曜日が限りなく楽しい。其の頃東横沿線の妙蓮寺駅菊名池のほとりに住んでいた。或る日曜日庭にむしろを敷いて、馬の製作を続ける有様を生垣の間から静っとみつめて居た中老の御人があった。次の日曜日にも来て居られた。完成の時是非売り渡して下さいとの事だったが、断り切れず趣味の意を告げて進呈した。
 翌日事務所から帰ってみると妻から一通の一書状を受取った。馬の礼状であった。尚金弐拾円を仝封して、次の研究の素材代にして頂きたい。又自分は某保険会社の重職にある者名前は探さないで呉れ。大体以上のやうな意味の書状であった。お返しする術もないので共の御好意に甘へ、拾円は材料代に残し、拾円は横浜市内の読売新聞支局に献金した。
 所が翌日の読売新聞神奈川版に「無名の彫刻家軍馬を献納」然も名も告げずに去った筈なのに、其処は御手のものの職場柄、すっかり調べ上げて私の名前を堂々と公表して終った。それから注文が四五点あったが、事情を打明けて辞退した。
第三回
 やがては美しい御仏を造り上げてみたい念願で、刻み続けた私の彫刻も漸く熱を加へ、予備行動として種々雑多なものを彫って行った。七福神、十二支中の諸動物、植物とそれこそ心の赴く儘に進んで行ったが、彫り進むにつれその作品に疑問を持つやうになった。単に数多く造ったと云ふだけでは何も意味を持っていない事に気がついた。結局心のない作品である事を、はっきりと自覚したのである。そこで彫刻の本心にふれるべく、新らしい研究と悩みの日々が続いた。或る秋の一日横浜市郊外の弘明寺に参詣した。此の寺の本尊は国宝十一面観音がおまつりしてある、計らずも此の日、比の尊像を拝する幸運に恵まれ、その崇高な御姿に接する事が出来た。二米近い堂々たる尊像で、寄せ木を一切使用せず、仏体全体が棒の一木彫である。荒い「ノミ」跡は未完成のやうな荒々しいものであったが、心打たれるものがあった。鎌倉期の作と伝えられ無論作者は不詳である。この荒削りの中から、どうしてこんな素晴らしい御仏が生れたのであろうか。それから私はこの問題に考へふけるやうになった。結局幾日もかって考へ出した結論は、至極簡単なものであった。「因はれぬ心の持主が名も欲せず名誉も入らず、只管ら御仏を念じて造った一念が、この作者をして此の観音像を彫らせたのだ」と。
 行き悩んだ私の彫刻は、遂に師を求め始めた。本業との関係で横浜附近に師を探ねた偶々横浜市日出町に加藤正秋と謂ふ彫刻家のある事を知り、早速お尋ねして入門を申入れたが、簡単に断られて了った。日を更めて、三回、四回と根気よく訪れてお願ひしたがその都度断られた。七回、八回とお尋ねする頃には、挨拶に出られる奥さんが気の毒がられて、私の顔を観られるとすまなそうに微笑せられる。私ももう更めて入門の事は云はないで、駄目でせうかと頭を下げるだけになって了った。こうして十回もお尋ねしたろうか奥さんの取なしで漸く入門が許され、師に面接する事が出来た。お逢ひしてみるとそんなむづかしい人柄ではなく、優しいよい師であった。アトリエに通ふやうになってからの笑い話に根気よく尋ねた頃の話が出た。入門を断った理由は種々あったであろうが、第一歳を取り過ぎていて、どこかのサラリーが物好きにひやかし半分の入門で、一二度来れば直ぐいやになって了ふ。二三回断はれば自然思ひ止まると思っていたが、実によく来たものだ。妻の話では丁度君は十一回やって来たと腹をかかへて笑はれた。こうして私は本格的な彫刻の道に、兄弟子二人の仲間入りをなし土曜日の午後は夜の更けるのも知らず夏の夜等はアトリエに夜を明し、日曜、祝祭日は通ひ続けた。この為本業の方を怠るやうな事はもちろんなく、三年間を一途に修業した。此の間幾度か彫刻道に転向しやうとしたが、既に四人の子供の父になっていた。生活の事を考へると其の都度迷ひを生じた。妻はよく私の心を理解して転向をすすめた、その頃妻は琵琶の教授所を開き、弟子の養成をしていた。当時のJOAKからよく放送をしたりレコード会社等にも吹込みをして居た関係上多少の収入が此の方面からもあった。又三条公爵邸で、旧御皇族五官様の御前演奏の栄を得た関係上、三条邸にも出入し、このやうな事で妻が家計の方は負担すると云ふのである四人の子供の内三人迄が年子で、三ツ児同様である。妻の意見に従って転向する事はあまりに悲惨であった。時恰も日支事変は悪化の一途を辿り日々出征して行く同僚の数は激増して行った。又私自身の身辺にも大きな変化が訪れた。昭和十四年頃弟が海軍に応召され、末弟は善通寺騎兵聯隊から満洲に派遣された。日常の物資も窮乏の前兆が見へ始め生活必需品の一部には、配給制度が実施されそうになった。主食も追ひ追ひ不足を告げ始めた。当時の国務大臣某氏は、ラジオを通じて国情を説き、養分確保の為には海に依存して、国民は遠洋漁業に乗り出すべきだと力説した。此のやうな意味の放送を聞いた私は無精に腹が立った。あまりに国民を馬鹿にしている。此の国務大臣は立派な人であるにも拘らず、海を知らない、千葉県浦安の海岸でアグラを組んでのんびり「キス」釣りに醍醐味を満喫してるる元東京市長A氏の釣り位にしか考へていない。海の心を知らない者は大胆である。漁業の実体を知らず、漁獲と云ふものがそうたやすく一朝一夕に生れるものではない。私は心密に憤慨した。然し憤慨してみてもどうにもならない。それでも心を引かれて、此の放送を反覆して私の周囲を静かに反省してみた。
 昭和十六年の正月を迎へた。故郷の慈父に還歴が訪れ、優しい母も老いた事であろう。男三人兄弟の中、二人迄が既に明日の生命の保証は出来ない。私のみ無事をむさぶる事は出征した二人の弟、両親に対して限りない悔を覚へずには居られない。某国務大臣の放送講演も有難かったと思ふやうになった。その理由は父の生家は没落して昔の面影は何一つ止めないが、特別漁業権が家に残り、随って二十ケ所の漁場権が健全である。私のやうな人間が都心から去って行く事は時局に叶った事であり、又誰一人困る者はない。一人の漁師、一人の農夫を作る事は今の祖国には重大間題である。少年期父の生家の漁業を想ひ起して、よく検討し、自間自答の結果、私は必ず漁師たる事の出来る自信を得た。此の危機を乗切る為には一切の行きがかりを捨て、老いた両親の膝下に帰り漁業を復活しやうと決心した。二月十一日紀元節の当日、東京は雪であった。数々の想出を残して、知己、友人に見送られ伊予吉田に帰って来た。
 十年振りの帰郷であった。父の生家は荒廃の極に達し、土蔵も、倉庫も、網庫もない。半ば崩れた築土塀の中に、七十坪近い母屋の草葺屋根が半分以上吹飛されて、惨憺たる有様であった。部落の人々の温い応援でどうにか修理を終へ、先づ漁船を建造して鰯(いわし)網を造った。漸く祖先の遺業を復活した。部落の人々は馳せ参じて協力を惜まず、網子になって下さった。久しく止絶へていた鰮(鰯)網が、此の部落に生気を吹き込んだのである。此の家の主人は父の兄で、遠く北海道に移住してるた。此の伯父から資本の援助を得て、一歩々々規模を拡張し、幸ひ宅地が七百坪ばかり残ってるたので整理してその半分を網干浜に改装した。漁業、農業共に形を整へ、十二月八日の宣戦布告の頃には、鯛網、サワラ網、マグロアグリ網等も整備して一応沿岸漁業の態勢を整へる事が出来た。三十人近い網子と共によく動き、よく海を活用して漁獲に最善を尽した。一例であるが二十年五月から獲れ始めた鯖漁は、実に莫大なもので、毎朝二千貫、三千貫と漁後した。悲しい事には交通便の不備と、統制々度がわざわいして、その大半を腐らし、肥料とせねばならなかった。漁業は三十年六月迄継続し丸十四年間宇和海、豊後水道で日夜を暮らしその間世に送った煮干し(いりこ)は約五万貫に違した。東京を去る頃の初志は一応貫く事が出来たと、その無駄でなかった事を感謝した。然し此の期間中絶へず資本難に追はれ借財莫大となり、貧乏に苦るしみ、頭は急激に白髪と変った。斯うした中にあっても彫刻は継続して、「ノミ」の手入れは怠らなかった。潮風の為刃物がさびやすく、一寸の油断も許されない。少しの隙にも何かを彫り続けて来た。冬期海の時化る時は又楽しいものであった。私の彫刻にも大きな変化が来た。それは次の様な事情からである。
 小学校に入学した頃の竹馬の友は、男女合わせて八十餘名であったのに、終戦当時既に三分の二の友が世を去って行った。此等の友に何か申訳ない恥しさをしみじみと感ぜずには居られない。十八年十二月に末弟がニューギニヤ・ギルワで戦死をし、次弟は十九年三月大平洋戦争で旧日本海軍と運命を共にした。末の妹も兄二人の戦死を悲しみ、心の痛手が大きかったのかニ十一年九月に世を去った。私の漁業に最大の援助を惜しまなかった北海道の伯父も二十五年三月に急逝した。在京中の恩人、知己、友人達が一人々々失はれて行き、又周囲の若者達が遠く海外にあって親を想ひ、妻をしのび、愛児の幸ひを祈りつどれだけ死んで行った事であろう。私の慈父も二十八年五月大往生を遂げ、悲母も三十二年三月永眠した。横浜の恩師加藤正秋先生も戦後消息が絶へ、種々と探してみたが解らぬ。二十四年豊後水道を襲ったデラ台風は、同業百数十名の尊い命を一夜の中に奪ひ去った。私達はラジオの気象通報と照合して出漁を中止した為、此の難から逃れる事が出来た。御仏の加護である。十四年間の漁労生活中、沖合遠く生命の危険にさらされた事は一再ではなかった。その都度不思議と命拾ひをしたものだった。私の獲た魚族の命は一体幾尾になる事だろう。況してや祖先が獲た数を想へばたとへそれが御仏の心にかなった正業とはいへ、割りきれないものを感ぜずには居られない。生き残った私の幸を、仏への感謝として私の造型は信仰となって、美しい御仏の姿を造り、既に世を去った人々の冥福を祈る上にも、又不幸な人々のせめてもの心の慰めともなる仏の姿を造り度いと決心した。こうして漁業ともお別れして、仏像彫刻に専念するやうになった。数へ年既に五十三才、昔式に謂ふなれば五十年の人生は尽きている。年齢等に負けてはならない、人生は五十からと勝手に決めて、人生の振出しに戻ったのである。想へば長い道草で半世紀近くの流浪の果てに潮く両親から譲られた本性に醒め、黒潮の流れの様に私の全身の血潮は逆流を始めたのである。かっての関東大震災の折、私を間接的に救って下さった、日の出やの女中「おこと」さんに、何時かは仏様を彫って会向したいと念じた心の誓ひを、今こそ果たそうと決心した。今迄は美しい仏を造らうと調ふ考へが多分にあったが、私の考へにも変化が来た。真実の仏を作ろう。芸の功拙を云うのではない。「真実の仏とはどのやうなものか」それは私にも解らない、解っても解らなくてもよい、私は進まねばならね。或は残り少ない私の生存中には真実の仏を造る事は不可能の事であろう。然し斯ふ謂ふ事は言へると思ふ。只一生懸命、命をたたきつけて彫り続けて行く中には、或は美しい仏も、又真実の仏も生れ出るかも知れない。
 仏像は単なる美術品ではなくて、まず第一に礼拝の対象でなければならない。真心の打込めない作品は、如何に外観は美しくとも、真の尊像ではない。無論仏像ではないのである。又造型の上から観て、仏像、尊像の形は意の赴くまま、気儘備に作る事は許されない。その基本になるものは経典と儀軌である。経典と儀軌を基本として、その上に打ち立て、行く創作は自由であると信じている。


第四回完
 卅年六月から彫りはじめた聖観音像は、十月半やうやく完成した。恰度そのころ旧友高島画伯に奨められ、愛媛県美術展に出品をしてみようと決心をした。一応客観的な批判を仰ぎたいと思ったのである。幸ひ入選することは出来たが、日のたつにつれ、拙い自己を嘆かずにはいられない。再度観音像の製作にかかり、翌年春の県展に出品した。この観音像は東宇和郡東多田村の老御夫妻に所望されその家に祀られることになった。戦死された御令息の冥福を祈るためだと申された。この頃、元愛媛師範の教諭であった「近藤新一」先生を知り、教典と儀軌とについてたへず御指導を仰ぐ事ができた。進めば進むほど疑問と障害とにゆくてをはばまれ、己れの不甲斐なさがひし?と胸にせまってくる。こうしたときには必ず観音経をよみ続けた。
 裏山で鶯がなきぬいていた若葉の美しい日であった。北村西望先生の門下で、戦前旧国展で特選の栄を捷ち得られた「三好直」先生が、病の為故里、来村で既にながく保養されていることを、ふと耳にした。私は心ひそかに決するものがあって、翌日宇和島市より岩松街道を南に約一里強、旧来村保田の御自宅をおとづれた。鯉幟りがゆたかな尾びれを青空になびかせていた。残念なことには先生宅は御不在で、行先がわからない。御近所の人々や、遊びたはむれている子供達に尋ね歩き朝早く山にゆかれたことだげけを知った。土地不案内な山みちをさまよひながら、先生、先生と大声で連呼しながら探ね歩いた。木々の若芽が美しく、鶯が鳴きぬいてゐた。大きな池のほとりでいく度か叫ぶうち、「オーイ」と遠くから返事が木霊してきこえてきた。とうとう先生を尋ねだした嬉しさは、たとへようもなかったが、サテ未知の私の願ひをきいて頂けるかどうか、それは疑問で心細いかぎりである。ともかく声の出所を目当に面会することが出来た。先生は野地を拓いて西瓜畑の手入れをして居られたが、早速訪問の主旨をのべ、御指導をおねがひした。このときの先生の表情は複雑なもので、どちらが年長やら年下やらわからない、得体のしれない人間が、全く予期しない入門をたのんできたのである。突差には御返事もいただけず、西瓜畑の手入の終るのをまった。それからまもなく二人が若葉の木影で鶯のこえをきながらタ方近く迄語り合うことができた。
 こうした縁から先生と私とは急速に緊密の度をまし、日のたつに従って濃くなって行った。先生は借しげなく御自身の蘊蓄は私に伝授していただくことができ、よく御指導をして頂いた。奥南から保田までの五里の道は少しも遠いとは思はず、ときには自転車で山坂をこえ、夜更けて真暗な野道を帰るときでも心はつねに生々と弾んでほがらかであった。こうした中から九月の末一体の不動明王が完成した。十一月の県展に出品して再度入選した。この不動明王は島根県益田市にある一寺内の不動堂に本尊として安置された。
 心のうちに久しくわだかまっている離郷の決心は、稍々ともすれば乱れ勝ちとなってくる。ましてや祖先の墳墓の地といふ観念が、折角の決心を鈍らすのである。一方数年来の大不漁の後始末をつけねば世間に迷惑をかけることになる。いざとなると迷ひがでてならない。この迷ひも亡父が私をさとした言詞を思ひだして決末をつけることができた。それは「施身聞偈」の物語りに附随した「いろは」歌の事であった。詳細は簡略してのべてみる。始めて上京のおり、父は私にこういった。「施身聞偈は、身を施して偈を聞く」と読む。昔、帝釈天がおそろしい鬼の姿になって、雪山のふもとにくだり、(諸行無常、是生滅法)と声高らかにさけんだ。一人の苦行者はあとの半偈を聞くために己れの身を施して(生滅滅己、寂滅為楽)を伝授された。併しこの四句の偈は万人には一々解訳が困難なため、伝説では弘法大師が、いろは歌に作りかへられて、世の人々に示されたといふ「色は匂へど散りぬるを」「我が世誰ぞ常ならむ」「有為の奥山今日越えて」「浅き夢見し酔ひもせず」いろは四十七文字となったがその中にかくされた、崇い言詞がある。七文字目七文字目を拾ってみると(とがなくてしす)となる。(罪なくて死す)「お前は都にでて学問するはよいが、学問で生活して偉い人間になるといふ考へよりも、罪なくて死ねる人間となるやう修養する考へで学問をしてもらいたい」これが父の私へのはなむけの言詞であった。爾来父の教訓を守ってきたが、かなしいかな片方だけであった。偉くならなかった方はよく守ったが、「罪なくて死す」の方はおおよそ縁遠いものとなった。これ以上罪をつくりたくはない、一日も早く関係者に安心していただかねばならない。禅話にある「飯は喰ったか、茶碗は洗ったか」である。せめて餘生だけでも「罪なくて死す」でなければならない。こう考へると父の言詞がひしひしと胸にせまる。
 折もよし、私の彫刻のためにも故郷をさるにしくはないと決定すると、迷ひも故郷への執着も霧散して一瀉千里に整理へと進んだ。さるに際し、拙いながら私の作品を、氏神様に奉納しておきたいと希ひ、二尺五寸の大黒天を彫みあげ、故郷の平和を祈念して奉納した。今日なほ故郷の鎮守の森で静かに平和をまもってゐられることであろう。
 三十二年の早春、母が観音様が欲しいといふので、お彼岸の近いころ小さな十一面観音像を彫りはじめた。母は毎日私のそばにいて、次第に完成してゆく尊像を楽しそうにみ入っていた。完成の近づいたころ、母は「あと三日位でできるか」と尋ねた。母と子はすぎ去った苦難の日の思出話等を、茶をすすりながら1日を楽しく語りすごした。翌日から母は床についたが、別に大した事もなく、医師も少し心臓が衰弱している位だといっていた。それから三日目、彼岸の入りの三月十八日午すぎ、観音様が出来上った事を告げ、母に渡した。母の喜びが今もなほまぶたにしみてゐる。それから三十分後、妻に抱かれ楽しそうに微笑をたたえて七十六才で此の世をさった。私の作った観音様が母のまくらもとに立ててあった。私は母の死後なんとしても不思議でならない、観音像の完成をまちわびて死んで行ったやうに思はれ、この像は母と共に荼毘にふした。おそらく母はこの像と楽しいよみじへの旅に立ったものと信じている。
 五月の末像高四尺七寸の不動明王の製作に着手した。たまたまこの像の製作中九月五日の事であった、耕友岩城竹太郎君によって「大山澄太」先生を知ることが出来、心に大きな灯明を点じる事が出来た。その頃本誌に掲載されていた先生の創作、鈍機和尚の物語りは、彫刻を志す私にはっきりと、その行方を示し、心のカメラに深く深く焼付けられた。こうした中から十月末、この大作不動明王は完成した。近藤先生から教典儀軌の指導を得、三好先生から芸の深さを譲っていたき、今叉大山先生より心の指導を得たのであった。その出来栄えは何一つ誇りとするものはなかったが、それこそ命をたきつけては昼夜彫り続けてきた。十一月県展に出品したところ、幸ひにも愛媛新聞社の特賞を得た。
 慈母を送って以来、松山への転住を急ぎ、三十三年四月先づ妻子を道後に移らせ、整理の方も順調に進んで行った。そのころ釈迦如来の大作に専念していたが、八月中旬すべてを整理する事ができ、世間に迷惑をかける事もなく故郷をたつことができるやうになった「喰った飯の茶碗を洗ふ」事ができたと喜んだのである。亡き両親の墓前にたたずみ、罪もつくらず故郷を去ります」と報告して置いたが、定めし満足な事であったろうと一人できめておいた。
 昭和卅三年八月廿日の朝早く部落の人々に別れをつげ、松山ゆきの列車にのった。立間駅でわけもなく途中下車をして、卯之町街道を法華津峠に登った。心の中を去来する故郷への愛着がこうさせたのであろう。此の峠こそ思出の峠であり、遠い少年の日、世の中への第一歩を踏み出し、暖い両親を離れたとき始めて泣いたのはこの峠であった。あれから四十年の歳月が流れ、空行く雲にも似て五十年の過去を回想せずには居られない。遠い人生の記録が、次々とよみがへってくる。私の存在、それは其の辺に転っている石にも等しい。無価値な石も利用次第では漬物石位には使へる。私は或は今後それ位には役立って行き度いものだ。五十年の人生は、随分他人の世話になり、どれだけ世の厄介になってきたことか、私の過去に、私のしる限りに一人の悪人もなかった。若しあったとすれば、それは私自身を反省してみなければならない。箱根山駕籠で越す人、担ぐ人、その又草鞋を作る人、で決して一人よがりは許されない。未知の土地で今後叉、どれだけ多くの人々から世話をうけねばならないかわからない。人の恩、世の恩、御仏の恩を忘れてはならない。
天涯無一物、在るものは明日への造型への希望と、美の追及である。何の東縛もなく、何一のわだかまりもなく、今こそ一意専心、驀地(まっしぐら)らに彫刻への道に適進できるやうになった私を限りなく幸福と思ひ、御仏に感謝せずにはゐられない。今日は八月廿日、五十五回目の私の誕生日である。以後彫刻のサインを本名(栄市)より(英一)に改めた。私は生れ変った覚悟で進む。「ノミ」と砥石の入ったリュックを背におひ、漸く腰をあげた。
 何時のまにか既に日はおち、周囲は暗くなってるた。遥かな宇和海に漁火が点綴してゐる。水の子の灯台であろう、強い光が明滅するのがよくみへる。吉田の方をふり返り「時々帰ってきますよー」と叫んだが、おそらく亡き両親への別れの挨拶であったのであろう。峠の切通しを抜け、下り坂にかかった。気も心も晴々として自作の歌?を朗詠しつつ松山に行くべく卯之町へと向った。
 旅にくれて法華津峠にたたずめばいさりびみゆる故郷の海
 故郷は恋しきものよ海の碧山のみどりにわれは育ちぬ
 橘の花のかおりにむせぶ丘なき人々に祈りささげつ
 (完)

佐竹英一(1903~1974)

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