県指定無形民俗文化財 吉田秋祭の神幸行事
吉田秋祭は、宇和島市吉田町立間の八幡神社の一一月三日秋季例大祭における神幸行事である。近世後期に成立した祭礼風流であるねり行列の形態を幕末期に描かれた複数の絵巻物で確認できる。この近世祭礼の姿が江戸時代と変わらない町割りの中において江戸時代後期から継承されていること、南予地方の祭礼に登場するねり物の要素が広範に含まれて構成されることが特徴である。おねりには、御船、練車、鹿の子、牛鬼、宝多、御用練りなどがある。牛鬼、鹿踊など南予地方独特のねりを見ることができる。贅を凝らした練車や立体刺繍の飾り幕は吉田町人の財力を物語るものである。練車の静的な運行に比べ、牛鬼や神輿のあり方は近代に大きく躍動化を遂げ、演じることを見せる祭りへの変化がうかがえる。行事の次 一一月二日 例祭神事等 午後二時〜午後八時 伊勢踊り(伊勢踊り保存会) 例祭神事が終ったのちに伊勢踊り保存会の一三人により演じられる。拝殿中央に太鼓演奏者が一人座り、その左右に六人ずつ計一二人が、手に御幣と歌詞の紙を持ち本殿に向かって立ち、伊勢踊りが始まる。太鼓の演奏に合わせ、踊り手は唄いながら足を交互に出し、調子をとり、神事参列者は踊りを見守る。踊りが終了すると、御神酒と御札が配られ、参列者は札を受けとり、例祭神事が終了となる。 宵宮宝多(宵宮宝多行事保存会) 宵宮宝多は、各地区の子どもから大人が白装束の装いに宝多面を持ち、宵宮の晩に南山八幡神社を参詣し、御神符を受けてそれを角に貼り、夜が明けるまで吉田の町を闊歩する徒歩練りである。しかし、徐々に宝多に扮する人も少なくなり、昭和の後半にはその姿は見られなくなっていたが、平成二七年度から吉田秋祭に復元復活した。 卯之刻相撲(卯之刻相撲保存会) 一一月三日の早朝、午前五時より神輿への神霊奉遷に先立って神前に神事相撲が奉納される。これを「卯之刻相撲」と称している。 鹿の子(立間鹿の子保存会) 大正時代以前の吉田祭りの絵巻には五ツ鹿が描かれているので、五ツ鹿から七ツ鹿へと変容したのは昭和初期頃と推定できる。鹿踊りは、宇和島・吉田をはじめ、南予の旧両藩領内でおこなわれているが、宇和島が八ツ鹿、吉田が七ツ鹿、その他はたいてい五ツ鹿であり、この鹿の数にも、宗藩・支藩の権威あるいは神社の社格が象徴されているようである。吉田では七ツ鹿踊りそのものを鹿の子と称しているが、特に立間の鹿の子は、素朴で力強く、しかも哀調をそこなわぬところ、南予随一の呼び声が高い。雄鹿が二頭、雌鹿が一頭、若鹿が二頭に小鹿が二頭の、つごう七頭によって踊られる。親鹿の吹く笛の音につれて、胸につるした太鼓の撥さばきもあざやかに、勢揃い、道行、踊り場への飛び込みと、しだいに魅せられてゆくうちに、小鹿をまじえての楽しい庭見、そして雌鹿をうばいあう雄鹿の競い合いと、踊りは高潮する。 おねり(おねり保存会) 吉田祭りの屋台は古くは「車」と表記し、「ねりぐるま」と読まれ、現在では「練車」と書くうになっている。この「」の漢字の音読みは「レイ」で、訓読みは「おそい」となる。このことから車とは「ゆっくりと練る屋台」という意味であろうと推測される。 牛鬼(牛鬼保存会) 吉田では「うしょうに」または「うしょうにん」とも呼ばれる。吉田の牛鬼の本領はその暴れかたにある。俗に「吉田の暴れ牛鬼」と称されて有名であるが、これだけは他のどの地方にでも見られない壮絶なものであった。 |